礼拝説教要旨


2015年6月7日
日本基督教団信仰告白
(12) 「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」 田口博之牧師
ローマの信徒への手紙3章21節〜31

 

@信仰義認

日本基督教団信仰告白の第3段落は、「神は恵みをもて我らを選び」に始まり、これに続いて、「ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」との告白が続きます。わたしたちが、どのようにして救われるのか、ということがここで語られているのです。

ただし、わたしたちの救いについては、これまでにも語られていました。今日はローマの信徒への手紙3章21節以下をテキストとしていますが、すでに第二段落の終わり「我らの贖いとなりたまへり」を主題としたときに、この箇所を聖書テキストとしていました。3章24節に「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。

ところが、これだけでは、わたしたちの救いは実現していないのです。救いのために、これ以上に求めるものは何もないというのに、救いの出来事となる何かが必要なのです。それが恵みによる神の選びでした。わたしたちを選びたもう神が「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」のです。「信仰義認」とも表現される、わたしたちプロテスタント教会の信仰における根本原理といえるものです。

再来年、2017年はプロテスタント教会にとって大きな記念の年になります。マルティン・ルターが、ローマ教会に抗議(プロテスト)して、95カ条の提題を掲げ、宗教改革の火ぶたがきられたのが15171031日のことでした。2017年は、宗教改革500年を迎えることになるのです。この宗教改革の根本原理となったのが、「信仰義認」でした。ルターが回心に導かれた中心的な思想であり、カルヴァンの考えも変わりません。日本基督教団信仰告白が、「ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」と告白しているのは、宗教改革的信仰に立っているからに他ならないのです。

 

A悔い改めは必要ない?

昨年の11月に、東京神学大学から棚村重行先生を迎えたとき、宣教の中で「花子とアン」のワンシーンを話されました。東洋英和女学校の寄宿舎で、花子がワインを飲んで酔っ払ってしまったとき、ミス・ブラックモア、配役名でいうブラックバーン校長が花子に「罪を真剣に悔い改めた者を主は赦してくださる。」と言って、花子が退学を免れましたときの言葉を引用されました。

ところが棚村先生は、あの言葉を宗教改革的な信仰の言葉として、引用されたのではなかったのです。これに補足するかのように、午後の学習会の時間で、あの言葉は、19世紀から20世紀にかけての信仰復興運動、メソジスト教会の信仰の特質であって、日本基督教団信仰告白で言い表されている救いとは違うという話しをされました。日本基督教団信仰告白は「信仰のみによる義認」を語っている、福音の慰めを知る信仰だと語られました。

また、日本基督教団信仰告白が制定されるに際し、「神は恵みをもて我らを選び」に始まる第3段落に「悔改めて」の4字を挿入する修正案が提出されたことを紹介してくださいました。どこに入れるかといえば、「神は恵みをもて我らを選び、ただ〈悔改めて〉キリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」という提案だったのです。結局、この案は採用されなかったのですが、その修正案が通れば、わたしたちの教会の救済理解は大きく変わってしまったことは間違いありません。

もしそうなったとすれば、これに続く「この変わらざる恵みのうちに、聖霊は我らを清めて義の実を結ばしめ」も、随分と混乱してしまったと思うのです。わたしたちは、「聖化」も「義認」の恵みと一体的なものとして捉えています。そのようにして、宗教改革以来の信仰を受け継いでいるのです。もし、「悔改め」という言葉が入っていたとしたら、わたしの説教の言葉も、救われるための努力が強調されることになるのです。礼拝で日本基督教団信仰告白を学んでいるのは、わたしたちの教会がどういう信仰に立っているかを確かめるためなのです。

 

Bただ信仰によってのみ

わたしたちの教会は改革派の伝統にありますが、「信仰義認」に関して言えば、ルターにはじまる宗教改革の信仰につながっています。日本基督教団信仰告白も、「ただキリストを信ずる信仰により」と、「ただ」という言葉がつけています。そこに信仰「のみ」による義認が語られているわけです。

ローマの信徒への手紙3章28節に「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」とあります。ルターは聖書を自国語であるドイツ語に翻訳するという作業を行ったとき、「信仰による」としたところに、「ただ」とか「のみ」に相当するドイツ語を加えました。それはルターにとっては自然なことでした。当時のカトリック教会、ルターもカトリックの修道士でしたけれども、信仰だけでなく、行いが強調されていたからです。「人間の善きわざ」が救いの条件になっていたのです。しかし、聖書の福音は、人間は行いではなく、信仰によってのみ義とされることは明らかです。「信仰義認」というのは、ルターのオリジナルということではありません。ルターは、パウロの信仰を再発見したのです。

その信仰に、わたしたちも立っているのです。わたしたちは聖書で「信仰によって」と書かれてあっても「ただ信仰によって」「信仰によってのみ」という読み方を自然にしているのです。わたしたちはハイデルベルグ信仰問答を用いますが、問い60「どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか」との問いに対して、「ただ、イエス・キリストを信ずるまことの信仰によってのみです。」と答えています。日本基督教団信仰告白は、これらの信仰を受け継いで「ただキリストを信ずる信仰により」という文言になったのです。

 

C信仰を恵みの賜物として

この「ただキリストを信ずる」という信仰に立つとき、信仰を「行い」として捉えられてしまう危険から逃れることができるのです。わたしたちは、「あの人は信仰深い」「信仰がしっかりしている」という言葉を使って、「その人の信仰」を評価してしまうことがあります。しかし、信仰もまた、恵みによって与えられるものなのです。

その一方で、信仰には、「与えられた恵みに対する応答」という面があることも事実です。洗礼を決断するということもそうです。説教塾に行くと、ルドルフ・ボーレンという学者に学ぶことが多くあります。ボーレン先生は、「信仰とは神の選びに呼応する〈こだま〉のようなもの」と言われるのです。信仰は、わたしたちに与えられている恵みの賜物なのです。その恵みを感謝して歩んで行くのが、わたしたちの信仰生活です。

パウロはローマの信徒への手紙3章25節で「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」と語りました。わたしたちの罪は、イエス・キリストの十字架の血による義の衣によって、包み隠されてしまったのです。

ローマの信徒への手紙では、続く4章で、アブラハムがただ神の約束を信じて義とされたという信仰の模範を語った後、5章1節で「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」と語るのです。この神との間の平和が和解です。キリストがわたしたちの罪を覆い、キリストの義がわたしたちに転嫁されたのです。そのようにして神の子とされたのです。何という恵みでしょうか。

 

 

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