礼拝説教要旨


2015年8月9日
日本基督教団信仰告白
(14) 「聖霊は我らを(きよ)めて義の()を結ばしめその御業を成就したもう」 田口博之牧師
テサロニの信徒への手紙二2章13節〜17

 

 

@罪が赦された人の罪

以前ある方から一つの問いを受けました。それは、キリストによって罪が赦された人は、何をしても赦されるのかというものでした。実際にその方は、キリスト者となった人が、具体的に罪を犯していることを知り、自分はそのことで傷ついている。そういう人を神様は見過ごしにされるのか。だとすれば、キリスト教の救いというのは、甘えを生むものでしかないのではないか。そのようなことを深く考え、聞いて来られたのです。

もちろん、救われた人は何をしてもいい、などということはありませんし、ありえません。本来そのような問いが生まれるはずもないのです。ところが、信仰者の現実の中で、そのような問いが生まれざるを得ない場合があることも事実です。

わたしは、どう答えればよいのか悩みつつも、神様の救いが取り消されるということはないだろうと答えました。しかし、誰であれ神様の裁きの座に立たされる時が来るのです。罪のない人など誰もいないのです。罪が赦されても、その人の罪がなくなったということはありません。知らずに罪を犯すということがあるかもしれませんし、罪を知りながら、罪を犯してしまうことへの恐れが欠けているということがあるでしょう。将来の裁きよりも、今を楽しむことの方が大事だという思いに支配されているのかもしれません。

 

A救いの生活

今日の宣教は、日本基督教団信仰告白の「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ」を主題としていますので、罪の問題は関係がないように思います。義とされたことで救いが完成したのであれば、その先の言葉は必要ありません。ところが、日本基督教団信仰告白は「我らの罪を赦して義としたまふ。」と告白した後で「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」という言葉が続くのです。

救いの御業は「罪の赦し」では終わらず、「その御業を成就したもう」ことで完成されるのです。では、その御業がいつ成就されるのかといえば、天に昇り神の右に座しておられるキリストが再び来られる終わりの日です。わたしたちの歩みは、救いが完成される途上にあるのです。途上ですから、足を踏み外してしまうということもありえます。罪が赦された人とは、赦された罪人といういい方もできます。赦されてなお残る罪の力に翻弄されながら、罪の赦しを信じて歩むのが信仰生活です。

わたしが洗礼を受けたのは38年前、高校2年のイースターです。受洗した日は父と一緒に電車で行きました。父は教会に行くのは初めてでしたが、息子の晴れ舞台だからと教会について行くと言って聞かなかったのです。わたしは父と仲が良かったわけでもなく、一緒に行くなんて嫌だなあと思いつつ、行きの電車に乗っていました。しかし、洗礼を受けるのだから帰りは違うかも知れないと期待していました。では実際にどうだったかというと、あまり変わらなかったのです。

その後も、洗礼を受けてからは聖書の言葉がどんどん頭に入るとか、清く正しく美しい者にされていくような、劇的な変化を感じることもありませんでした。そのときに何を思ったかというと、ああ洗礼というのは救いのゴールではなく、スタートラインについたところなのだということでした。現実に信仰生活はこれから始まるのだから、これからが肝心なのだなと、そのように感じたのです。

 

Bテサロニケ教会への勧告と祈り

テサロニケの信徒への手紙二の2章13節以下には「救いに選ばれた者の生き方」という小見出しがつけられています。1314節をもう一度読んでみます。「しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです。」とあります。

あなたがたを聖なる者とする“霊”の力とは、聖霊による潔めを言います。日本基督教団信仰告白では、「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ。」と、聖霊の御業として、〈聖霊による潔め〉と〈義の果を結ぶ〉という二つのことが語られています。この聖霊の御業は、「聖化」という言葉でも言い表すことがあります。罪赦された者は、聖霊によって潔められ、義の果実を結ぶことを信じ望みつつ歩むのです。

この手紙では、聖なる者として歩み出せる根拠を神の選びにおいています。神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。と語り、イエス・キリストの栄光にあずからせるために招かれたのだと選びの目的を語っています。この神の招きにふさわしく応えるために何をすべきかを15節「ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。」と語るのです。

説教や手紙で伝えた教えとは、かつてテサロニケに行ったときに語った説教やその後に送られた第一の手紙で伝えた教えにしっかりと立って歩みなさい。という勧めです。ところが、このパウロの勧めは祈りに変わっていきます。自らの力で行うことは困難だからです。「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。」(16-17節)

この聖霊を求める祈りは、主イエス・キリストと父である神に向けられています。三位一体神の助けによって、ふさわしく歩めるように、パウロは祈り勧告したのです。ここで語られている永遠の慰めとは、世の初めから終わりまで、永遠に変わることのない慰めです。確かな希望とは、神が実現される終末的な希望です。

 

C義の実を結ぶために

わたしたちの救いは、救いの約束を信じるがゆえの救いです。それはアブラハムが、約束の地を目ざして歩んだその歩みと重なります。アブラハムが約束を信じて歩み続けたのは信仰によって義とされていたからです。地上においては約束されたものを手に入れることできなくても、信仰による望みを失うことはなかったのです。

日本基督教団信仰告白は「聖霊はわれらを潔めて」と語った後で「義の果を結ばしめ」と語ります。「義の果を結ぶ」とは、聖霊を求める歩みの中で具体的に結ぶ良い果実のことです。ガラテヤの信徒への手紙5章22節に、「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」という言葉があります。その前に語られている「肉の業」に対して「霊の結ぶ実」と書かれてあることが大事です。洗礼を受けた人は、新しく霊の人とされますが、肉はまとったままですから、霊と肉とが対立し合っています。それゆえに洗礼を受けても変わらないのでは、と思えてしまうのです。この罪との戦いに打ち勝つためには、聖霊の助けによって日々新しくされるようにと、導きを祈り求めるしかないのです。

この霊の結ぶ実のことを、日本基督教団信仰告白では「義の果」と呼んでいます。「義の果」と呼ぶということは、義とされていなければ、実を結ぶことはできないことを意味します。キリスト者でなくても、社会のためによい働きをされる方、人格的にすぐれた方が多くいらっしゃいます。そういう方は、すでに良き実を結んでおられますが、行いによって義とされるわけではありません。聖化から義認ではないのです。教会に連なるわたしたちは、キリストという木につながっています。信仰者の結ぶ実は粒が揃っていなくても、そこで結ばれる実は聖なる良きものなのです。教会がしていることは小さくても、神の国と神の義を求めてなされます。罪赦され義とされている恵みのなかで、神様に栄光を現すためにするのです。

罪が赦されて生きるということは、お気楽に好きなことをして生きるということではありません。罪を赦された者でなければ、罪を知ることもないですし、罪を知るからこそ罪に苦しむこともあるのです。そこに人間の弱さが表れ、破れが見えてきます。そのような人間を聖霊が潔め、義の果実を結ばせてくださることのです。救われた者としてふさわしい生き方が形づくられてゆくのです。

 

 

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